ただの曲紹介
誰にだって自分が好きなものが一つぐらいあるものだ。
もちろん、世界中の一人ひとりにあなたの好きなものは何?と尋ねたわけではない。
だから、もしかしたら自分の好きなものがなくて、宙吊りの状態で退屈をやり過ごしている人がいるのかもしれない。
でも、そんなことを言い出したらまったく話が進まないので、それはとりあえず置いておこう。
自分の好きなものが何だ? ともし聞かれたとしたら少なくとも俺はすぐに答えることができる。
音楽と本、これがあれば少なくとも退屈をせず、一人で延々と時間を費やすことができる。
おそらく、この二つを生涯嫌いになることはないし、もしそれが存在しなかったとしたら、人生の楽しみの70パーセントが切り取られるという事態に直面する気がするほどだ。
だが実際に、世界から音楽や本が消えたとしても、なんてそんな仮定をしたとしても堂々巡りになるのでやめておこう。
というわけで、好きな音楽なんて腐るほどあるわけだが、自分の好きな音楽をなぜか紹介しようとしている自分を今発見しているという状態である。
そもそも、一体誰が読むのだろうというような文章しか書いていないという自覚はあるため、まぁ自分の思う通りに適当に紹介できればそれで満足だ。
誰かの興味を惹けるということは、ある意味奇跡的なことであり、もしそれができたとしたら、ただただ幸運と思うだけあって、それ以上でも以下でもない。
だから、元々期待水準が低い俺にとっては、願望水準がそもそも低いため、何か幸運なことがあればラッキー、何もないことが当然という態度で生きていくことだろう。
話が逸れてしまったが、この流れでは好きな音楽を紹介する流れだな、と勝手に頭に浮かんだので、紹介していくことにしよう。
くるりの名曲は何かと聞かれると、「ばらの花」と「ワンダフォーゲル」がすぐに思い浮かぶ。
他にもたくさん心に響く曲はたくさんあるわけだけど、すぐさま思い浮かぶのがこの2曲というわけだ。
今回紹介する「ばらの花」は、歌詞的に言えば年若き男女が、一線を超えるのに躊躇い、もう一足が踏み出せないということになるだろう。
切ないメロディーと歌詞、それを淡々と歌うわけだが、それが逆に心に突き刺さるというわけだ。
これはライブ音源で、小田和正との共演をしていて、そのハモリや演奏が特に決まっており、原曲の良さとはまた違う、心のどこかのボタンをハッキリと押される感覚が得られるような、素晴らしいライブ音源となっている。
というわけで、何曲か紹介しようとしたものの力尽きてきたため、今回はここで主電源が落ちることになりそうだ。
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誰にだって自分が好きなものが一つぐらいあるものだ。
もちろん、世界中の一人ひとりにあなたの好きなものは何?と尋ねたわけではない。
だから、もしかしたら自分の好きなものがなくて、宙吊りの状態で退屈をやり過ごしている人がいるのかもしれない。
でも、そんなことを言い出したらまったく話が進まないので、それはとりあえず置いておこう。
自分の好きなものが何だ? ともし聞かれたとしたら少なくとも俺はすぐに答えることができる。
音楽と本、これがあれば少なくとも退屈をせず、一人で延々と時間を費やすことができる。
おそらく、この二つを生涯嫌いになることはないし、もしそれが存在しなかったとしたら、人生の楽しみの70パーセントが切り取られるという事態に直面する気がするほどだ。
だが実際に、世界から音楽や本が消えたとしても、なんてそんな仮定をしたとしても堂々巡りになるのでやめておこう。
というわけで、好きな音楽なんて腐るほどあるわけだが、自分の好きな音楽をなぜか紹介しようとしている自分を今発見しているという状態である。
そもそも、一体誰が読むのだろうというような文章しか書いていないという自覚はあるため、まぁ自分の思う通りに適当に紹介できればそれで満足だ。
誰かの興味を惹けるということは、ある意味奇跡的なことであり、もしそれができたとしたら、ただただ幸運と思うだけあって、それ以上でも以下でもない。
だから、元々期待水準が低い俺にとっては、願望水準がそもそも低いため、何か幸運なことがあればラッキー、何もないことが当然という態度で生きていくことだろう。
話が逸れてしまったが、この流れでは好きな音楽を紹介する流れだな、と勝手に頭に浮かんだので、紹介していくことにしよう。
くるりの名曲は何かと聞かれると、「ばらの花」と「ワンダフォーゲル」がすぐに思い浮かぶ。
他にもたくさん心に響く曲はたくさんあるわけだけど、すぐさま思い浮かぶのがこの2曲というわけだ。
今回紹介する「ばらの花」は、歌詞的に言えば年若き男女が、一線を超えるのに躊躇い、もう一足が踏み出せないということになるだろう。
切ないメロディーと歌詞、それを淡々と歌うわけだが、それが逆に心に突き刺さるというわけだ。
これはライブ音源で、小田和正との共演をしていて、そのハモリや演奏が特に決まっており、原曲の良さとはまた違う、心のどこかのボタンをハッキリと押される感覚が得られるような、素晴らしいライブ音源となっている。
というわけで、何曲か紹介しようとしたものの力尽きてきたため、今回はここで主電源が落ちることになりそうだ。
眠さに襲撃される
確か昨日俺が目を覚ましたのは午後1時半ぐらいだったろう。
だから、何時間だろうな計算するのが面倒なので、いちいちやらないが結構な時間起きていることになる。
なぜ今まだ起きているのか?
ただ単純に仕事をやっていたからなわけだが、そのおかげで疲労が俺の身体を蝕み、眠気という凶器を使用して、体力を削り続けていることになる。
んならば、今すぐにでも寝ればいいじゃねぇかとあなたは思うかもしれない。
だが、俺には未だにやらなければならないことがあり、流石にウンザリしてここへ逃避してきたというわけだ。
ところで、なぜ今日という日が来るのだろうか。
なぜ、また今日という日が巡ってくるのだろう?
また太陽が昇り、たとえ雲で隠れていたとしても、雲の上で燦々と輝き、今日という明日がまたやってくるのだ。
ヒュームがいうには、帰納によって得られる因果関係は、ただの観察による習慣らしい。
つまりは、今まで太陽が登ってきていたから、また明日も昇ると勝手に人間が思うだけで、明日絶対に太陽が昇るとは限らないということだ。
そもそもがそうだ。
もし、決定論を受け入れてないとするならば、明日何が起こるかなんてわかりようもない。
神の存在を措定し、神が全てを決定していると考えるときのみ、明日に何が起こるかが決定されていると信じることができる。
過去にいくら同じことが起こったからといって、また同じことが起こるとは限らない。
白鳥を観察し、100000000000000000000000匹が白い鳥だったとして、白い鳥を白鳥と定義したとしても、明日黒い鳥だか青い鳥だかが現れた場合、白いから白鳥であるという定義は一瞬にして御破産となる。
過去の経験をいくら積み重ねたとしても、明日を見通すことなどできない。
明日のことなんて、この世界の誰一人何が起こるか理解している人などいないのだ。
というわけで、明日というものは人間の認識を超越していることになる。
まったく見通しのつかない、未知の世界だというわけだ。
もちろん、ほとんど100000000000000パーセントの確率で明日も太陽は昇り、朝を迎えるだろう。
明日が今日と同じだという予期ができなければ、未来を生きるための努力などしてなんになる?
だけど、米津玄師も「眼福」で歌っているではないか。
「そんじゃまたね明日ね」
そんな風に今日を終えども
明日なんてみたこともないのにさ
随分あっけらかんとしてるわ
望むのは簡単だ あなたのいる未来が
ただこの目に映るくらいでいい
私はそれで眼福さ
そう、俺たちは明日なんて見たこともないし、明日なんてくるかもわからない。
明日が今日と同じかもわからない。
そして、もし明日が来ないとしても今日望むのは容易だ。
もし明日が来るならば、あなたの姿がこの瞳に映るくらいでも、
それは限りない幸福であると言えるのだ。
なんて、そんなことぐらいで満足できないのが人間たる所以であるわけども。
眠くて誤字ってる確率100パーに100票。
フリースタイル
今、仮想的に僕が座っている部屋に雷雨が降っていることになっている。
どういうことかと言えば、ただ単純にヘッドホンでASMR仕様になっている雨の音をずっと聴き続けているだけだ。
具体的にいつ、どこで、誰が、どのようにして、これを録音したのかはわからない。
ただ単純にアマゾンのサブスクリプションでRAINと検索して、弾き出してきたものをただただ聴いているだけだ。
おそらく、よく眠れるためのリラクゼーションとして作られたものだろう。
だが、超小雨になったと思えば、いきなり弩級の雷雨になったり、崖が崩れることが目前に見えるような、土砂降りの雨音になったりと、少し落ち着きがなく思える。
ふと眠りがきそうだと思ったときに、雷が激しくゴロゴロとなるところに差し掛かったら、僕は間違いなく目が覚めてしまうだろう。
だからと言って、リラクゼーション効果がないとは言えない。
確かにこれを聴いて寝るとしたら、僕はおそらく眠れないかもしれない。
だけども、雨が建物や植物や海や川を叩く音は、どれもが多少異なりながらも、心地よさを感じさせてくれるのは事実だからだ。
おそらく、僕は疲れているのだろう。
約1時間で終わるこの雨音をもう、繰り返し3回ほど聴いている。
つまり、3時間弱ずっと雨音を聴きっぱなしというわけだ。
別に僕は雨音マニアだとか、雨音にフェチを感じるだとか、雨音を聞くと感じてしまうなどといったこともない。
むしろ、他に聴きたいロックやらポップスやらジャズやらクラシックやらは、腐るほど存在しているのだ。
いったい、どのくらいの曲が聴けるのかはわからないが、雨音を三時間を聞いてる間にも、世界では新たな曲が生まれ、そしてまた聴くかもしれない音楽が増え続けている。
そう考えると、時間を無為に浪費している僕は、なんだかバカみたいに思えてくるが、そもそもが時間を有用に使うってなんだ?ということが、頭にもたげてくる。
確かに明日も明後日も1週間後も、今僕が聴いているどこで録音されたのかも知らない雨音を聴き続けたとすると、それは馬鹿げているのかもしれない。
いや、それは本当にバカげているのだろうか?
時間を無駄にしているというが、時間を有用に使うとはなんだ?
知識を身に付けることか?
好きな人と一緒に語り合うとことか?
一人で瞑想をして悟りを開くために座禅でも組むことか?
そもそも、こんなこと無為な文章を書くということを今すぐやめることだろうか?
とりあえず、すべてがクソッタレな気分だ。
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自分が生まれたときに覚えた言語、つまり私にとっては日本語だが、その日本語だけしか使用できないということに、窮屈さを感じたことがあった。
世界には約6900もの言語が存在するそうだ。
そのだだっ広い世界の只中の海上にポッカリと浮かぶ島国の、その一言語だけしか理解できないと考えると、なんだか損をしている気さえしてくるのだ。
ある調査によると、約6900もの言葉が存在するこの世界において、ネット上での英語の使用率は約54.4パーセント。
まさに英語は世界の言語を牛耳っている覇権的な言語ということになる。
英語に続くのが、二位のロシア語5.9パーセント、三位のドイツ語5.7パーセント、四位は以外や以外、日本語で5.0パーセントだそうだ。
では、世界で実際に話されている言語のランキングはどうなのだろう?