哲学的な才能などない哲学書読み

基本的に気になる哲学書を、体系的にではなくランダムに読んでいるため、しかも特に専門的に学んだわけでもなく、おそらくその知識には至るところに穴がある。

 

哲学書は、文章が一般的な文章と比較してもなんとなく難解で、周りくどく感じ、その一読したイメージから哲学書というだけで敬遠する人もいることだろう。

 

個人的に初めて読んだ哲学書と言えるものは浅田彰の『構造と力』だったが、哲学的な知識が皆無であった当時にあって、一体何が書いてあるのかを理解しないまま、ただただとりあえず読み切った事は覚えている。

 

当然ながら、理解しないままただ字面を追っているだけなため、その文字通り内容など何一つ頭に残っていなかった。

 

しかしだ、哲学書に限らず、とにかく理解できなくとも読み通すということがとても大切なことだと言える。

 

特定の専門領域においては、その領域でしか使用されない専門的なタームが使用されるのが当然なため、初めてそれに出会した場合、それを調べる時間が読むという時間に加算され続けていく。

 

そういう専門的なタームは、調べなければわからないただの文字の羅列な訳だ。

 

例えば、イデアだとかデュナミスとかエネルゲイアとか、エピステーメーだとかパラダイムシフトだとかアウフヘーベンだとか、。

 

初めてこれを目にし、その単語だけでどういう意味だとか概念だとかを、直感で理解できるという人は、ほぼいないのではないか。

 

当然、文章中に出てくることから、その前後の文章のコンテクストから、大体こういうことではないか?ということを推測する事はできるかもしれない。

 

だが、その推測は曖昧なものにならざるを得ないし、辞書的な意味での定義を知らなければ、その言葉の変遷もわからない。

 

そう、言葉はある意味生き物であるため、時代が変遷するごとに変化するため、確定した意味として完全に固定された言葉は存在しない。

 

話がずれてきた気がするので、話を戻すととにかく哲学に関していえば、哲学において使用される専門的なターム、つまりテクニカルタームの意味をつかむ必要がある。

 

哲学書というものは、ある哲学の体系だか理論を批判的に継承し、それをさらに発展させるようにギリシャ時代から、延々と連綿と続いてきた知の堆積だ。

 

だから、ある哲学書を紐解いたとしたら、必ず参照した哲学者の理論やらタームが出てくるわけで、それをすでに知っているという前提で書かれている哲学書も多いため、訳がわからないということも出てくる。

 

おそらく、他の専門的な領域においても、大体事情は同じのではないか。

 

一体何を言おうとして書き出したのか、既にもうあまり覚えてないのだが、とにかく何か専門的なものを読むためには、ある程度の準備がなければ読めないだろうということだ。

 

だからこそ、あらゆるジャンルで入門的な新書がボコボコと発売されるのだろうし、そしてそうでなければ、なんの前知識もなく専門的な書を読むことはほぼ不可能だということである。

 

結論としては、哲学書を読む場合に限定すると、まずは新書で読みたい哲学者の若干の知識を頭に入れ、それからその哲学者自身が書いたものに進むのがいいだろうとことになる。

 

と言っても、俺の哲学的な知識の量などしれたもので、人にレクチャーをかませるほどの、知識も力量もない。

 

まぁとにかく何よりも大前提として必要なのは、その本を読みたいという情熱で、それに勝るものはない、ということですね。

 

その情熱さえあれば、難解でよくわからなくても、意地で読み通すぐらいの気力は出てくるし、少しでも理解したいという気持ちが、さらに書に向かわせるというループに入ることだろう。

 

ところで、最近読んだ哲学書としてスピノザの『エチカ』の感想を。

 

近代的な哲学の始祖として知られているデカルトだが、「我を思う。ゆえに我あり」という言葉を聞いたり見たりした人は多いことだろう。

 

デカルト心身二元論を、つまり精神と身体を完全に分割し、精神こそが本質であり、身体は延長という物体に過ぎないというものを確立したことで知られる。

 

それによって、機械的自然論という思想が現れ、自然という物体は征服するべき対象ということになり、科学の発展にとって非常に寄与したことも知られている。

 

そんなデカルトととは異なる思想を打ち出したのが、スピノザである。

 

心身二元論に疑義を唱え、精神と身体を截然と分離することはできないとする立場だ。

 

アントニオ・ダマシオが脳科学的な観点から、感情と理性は分離する事はできず互いにフィードバックし合っているということを述べている。

 

つまり、外部からの刺激を身体が受けることによって生まれる感情と、理性はお互いに影響を与え合っているということだ。

 

これは、スピノザが言っているように、精神と身体を完全に切断することなどできないということと符号する。

 

また、デカルトも神が存在するというのは自明としていたが、スピノザが考える神とはかなり異なっている。

 

神即自然という言葉に象徴されるように、スピノザの神は無限で永続的な存在であるが、その神が変状することによって、万物が生まれたという思想である。

 

つまり、人間や動物、森かそこらの石ころまで、すべてが無限の属性を有する神の一部であるということだ。

 

世界のすべてが神であり、神が変状したところ人間や動物その他は、神の一部としてある。

 

一神教のように、神が人間を造ったということではなく、スピノザがいう神は永続的に続く無限の属性を有した、世界の変状の総体としてある。

 

神の首を切り落としたと言われる哲学者、カントが出てくる前のスピノザは、独我論的なところがないでもない。

 

しかし、優れた哲学書とは現代から読み返すことによって、新たな意味が付与され、そしてまた新たな意味が汲み取られるという循環の中にある。

 

このスピノザの『エチカ』も間違いなく名著として、現代に通じるものを持ち合わせているのだ。