風穴

今日風穴が開いた。

いや、その表現は正しいとは言えない。

ついさっき 、その風穴に気付いたまでのことだ。

しかしながら、なぜこんなどデカい風穴が開いていることに気づかないまま、今まで生活してきたのだろう。

 

風穴が開いた理由?

それはわからない。

悪い事なのか、いい事なのかもわからない。

ヨルシカの「夜紛い」という曲の歌詞に、「ただ一つでいい、君に一つでいい、風穴を開けたい」という一行がある。

 

それはある種、なんでもいいから自分の存在が、思い人の身体のどこでもいいから、その思い人の中に自分の存在があったらという証拠としての風穴だ。

 

それは自意識としての過剰な部分が表出し、その思い人の中に自意識としての風穴があれば、その思い人は自分を忘れないだろうという自意識そのものの風穴である。

 

頭が回っていないので、まったく見当違いのことを言っていたら申し訳ない。

 

だが、いちいち構成を考えてまで文章を綴る元気はないので、それはひとまず置いておくとしよう。

 

だけど、今俺に開いてる馬鹿でかい風穴は誰かに開けられたものではない。

 

気付いたらそこにあったということは、自分で拵えたということなのだろうか。

 

小石を投げ入れても、無限に時間が経過しても、絶対に底に到達しない井戸のような、イデア的な穴でもある気がする。

 

この風穴は一体俺にどのような効果を及ぼしているのだろうか。

 

それは構造主義における欠如としての穴としてあって、その欠如として の穴があるからこそ、俺という存在が吊り上げられて、今存在しているという風穴なのだろうか。

 

しかし、風穴を、欠如を埋めたいという欲望もない今、この風穴が俺をどう規定しようが、そんなことはどうだっていい。

 

俺が知りたいのは、この風穴によって立ち上げられる構造ではなく、単純に風穴が開いてることからの効果なのだ。

 

日常生活において、風穴によってもしかしたらとんでもない悪影響を受けていることも考えられる。

 

これはただの直感で、帰納や演繹によって弾き出されたものではないため、ただの気のせいという感じで表出しているはずだ。

 

もしかしたら、俺に開いている風穴がどこぞのブラックホールと連結し、ブラックホール側から未知の何かを日々受け取り、日々影響を受けて、何かしらの言動に影響していないなんて誰が言える?

 

俺はそんなことあるわけないと断言できる。

 

また、これは一体どこに向かっているのかまったくわかっていないということも断言できる。

 

ただ、単純に疲労による身体能力と思考能力の著しい低下によって、風穴などが開いているなどという白昼夢を見ているだけかもしれない。

 

ガチで何も考えずに文章を書き出すと、まったくまとまりがなくなる例として、教訓にはなるかもしれない可能性はある。

 

願わくば、今俺は猛烈にアイスが喰いたいので、それを察知したどこぞの天使がやってきて、あなたがアイスを食べたいのはわかっていました。

 

そんなことが起こる現実を祈るのみだ。

 

それはまた夢の中でアイスを食べている俺を俯瞰で見ている夢の中の夢で起こることを願うことにしょう。

 

銀杏BOYZの「夢で逢えたら」でもきっとかかっている夢でありましょう。

 


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