眠さに襲撃される

確か昨日俺が目を覚ましたのは午後1時半ぐらいだったろう。

 

だから、何時間だろうな計算するのが面倒なので、いちいちやらないが結構な時間起きていることになる。

 

なぜ今まだ起きているのか?

 

ただ単純に仕事をやっていたからなわけだが、そのおかげで疲労が俺の身体を蝕み、眠気という凶器を使用して、体力を削り続けていることになる。

 

んならば、今すぐにでも寝ればいいじゃねぇかとあなたは思うかもしれない。

 

だが、俺には未だにやらなければならないことがあり、流石にウンザリしてここへ逃避してきたというわけだ。

 

ところで、なぜ今日という日が来るのだろうか。

 

なぜ、また今日という日が巡ってくるのだろう?

 

また太陽が昇り、たとえ雲で隠れていたとしても、雲の上で燦々と輝き、今日という明日がまたやってくるのだ。

 

ヒュームがいうには、帰納によって得られる因果関係は、ただの観察による習慣らしい。

 

つまりは、今まで太陽が登ってきていたから、また明日も昇ると勝手に人間が思うだけで、明日絶対に太陽が昇るとは限らないということだ。

 

そもそもがそうだ。

 

もし、決定論を受け入れてないとするならば、明日何が起こるかなんてわかりようもない。

 

神の存在を措定し、神が全てを決定していると考えるときのみ、明日に何が起こるかが決定されていると信じることができる。

 

過去にいくら同じことが起こったからといって、また同じことが起こるとは限らない。

 

白鳥を観察し、100000000000000000000000匹が白い鳥だったとして、白い鳥を白鳥と定義したとしても、明日黒い鳥だか青い鳥だかが現れた場合、白いから白鳥であるという定義は一瞬にして御破産となる。

 

過去の経験をいくら積み重ねたとしても、明日を見通すことなどできない。

 

明日のことなんて、この世界の誰一人何が起こるか理解している人などいないのだ。

 

というわけで、明日というものは人間の認識を超越していることになる。

 

まったく見通しのつかない、未知の世界だというわけだ。

 

もちろん、ほとんど100000000000000パーセントの確率で明日も太陽は昇り、朝を迎えるだろう。

 

明日が今日と同じだという予期ができなければ、未来を生きるための努力などしてなんになる?

 

だけど、米津玄師も「眼福」で歌っているではないか。

 

「そんじゃまたね明日ね」

そんな風に今日を終えども

明日なんてみたこともないのにさ

随分あっけらかんとしてるわ

望むのは簡単だ あなたのいる未来が

ただこの目に映るくらいでいい

私はそれで眼福さ

 

 

そう、俺たちは明日なんて見たこともないし、明日なんてくるかもわからない。

 

明日が今日と同じかもわからない。

 

そして、もし明日が来ないとしても今日望むのは容易だ。

 

もし明日が来るならば、あなたの姿がこの瞳に映るくらいでも、

 

それは限りない幸福であると言えるのだ。

 

 

なんて、そんなことぐらいで満足できないのが人間たる所以であるわけども。

 

眠くて誤字ってる確率100パーに100票。